..... 学 校 へ 行 こ う

学生の患者さんの場合の、学校との付き合い方の参考になれば。


○ 学校に復帰してみる


夏休みからずっと学校を休み、自宅休養をしていましたが、10月末から再び学校に通い始めました。

かつてのように自転車で登下校は無理だし、そもそも一人で外出するような体力はないので、母親が車で送り迎えをしてくれることになりました。
この日から高3に進級して卒業するまで、毎日送り迎えしてもらっていました。
その時はそんなに思わなかったけど、今思えばコレってすごいことですね。
「大変なのよ」とかの文句をいわれた記憶もないのです。
この協力がなかったら、わたしは高校を卒業できていなかったと思います。

学校に通い始めたといっても、完全に復帰できたわけではありません。
朝の補習の存在は完全に無視していましたし、出席する授業も2〜3時間のみで、一日フルで学校にいる…ということはありませんでした。
さらに、集中力も椅子に真っ直ぐ座っているような体力もないために、机にぐったりと突っ伏しながらなんとか体制を保っている感じ。
体育はもちろん見学です。バドミントンの授業は、飛び交う羽を見ているだけでぐるぐる目まいがしていました。
週に2日〜4日くらいは学校に行き、残りの日は家で休養…というリズムでした。

それでも学校に行けるようになった、というのは大きな進歩でした。

しかし。
この頃、「良くなってきてるから大丈夫かも?」と2学期の期末テストを受けたのですが、これが間違いでした。
ほんの2〜3日の無理でまた体調は急降下。
動くと次の日は必ず発熱、寝たきり…という状態まで戻ってしまいます。
その後、何度も似たようなことを繰り返してようやく
「どんなに動きたくても、かなり回復するまでは動いちゃダメ」
ということを学びました…が、これって結構辛いことです。
動きたいのに動けない。何も出来ない。
常に意識して、半分くらいの力で生きてないといけない。
残りの体力を考えながら生活する。
それって、精神的になかなか疲れることなんです。
この辺のセーブをうまく出来るようになることも、課題の一つであるような気がします。


○ 学校への対策


学校への対処はどうしていたのか、ということを書いてみます。
もし学生でCFSの方がいらっしゃれば、少しは参考になるかもしれません。

意外なことに?学校生活は、結構お気楽に過ごしていました。
家族の方針が決まっていたからです。
「とりあえず授業は聞かない。(体力が減るから)
出席日数だけはなんとか確保して、最低限度のことだけ頑張る。」
曲りなりにも進学校だった上に、受験を意識する時期。
でもわたし、どこかで喜んでました。
「受験戦争に参加しなくてもいいし、ゆっくり休んでよ〜っと♪」という感じでした(笑)
こんなこと考えてたの、学年でわたしだけだったのではないでしょうか…。

後に詳しく書きますが、高2の冬に阪大病院で「CFSです」と診断されたときに、お医者さんから次のように言われました。

「大学進学だけでなく、進級も諦めて、一年間休学した方がいいかもしれません」

ショックでした。
休めるのは嬉しいけど、進級できないのはヤだ!と思いました。
一学年下の子たちと高校最後の年を過ごすのはどうしても嫌で、進級できないくらいなら中退して、治ってから大検をとろう…と本気で思いました。

家族でも、今後の方針を話し合いました。
そして「とりあえずなんとか進級だけはする。そのためにみんなで頑張る」ということを決めました。
具体的な行動は、次の通り。

◎学校の先生に、今のわたしの状況を分かってもらう
もちろん月単位で学校を休む…という時点で担任の先生には話していましたし、学校の方にもある程度の認識はしてもらっていました。
が、改めてきちんとお知らせしました。
わたしが慢性疲労症候群という病気であること。
それがどのような病気なのか、ということ。
耳慣れない病名だけど、阪大病院(現在は大阪市大病院?)で診断されるような、れっきとした?病気であること。
ここで無理をすると一生寝たきりになってしまうかもしれないこと。
お箸を持つのでさえ辛いくらいなので、授業も聞けず勉強も無理な状況だけど、
それでもどうしても進級したいこと。
授業を聞けずに寝ているだけになってしまうかもしれないけれど、
どうか理解して欲しい、ということ。
そういうことを、母親が手紙にしたためて、担任の先生にお願いしてそれぞれの教科担当の先生全員に配ってもらいました。

普通の学校だったら、「勉強できない・する気のない生徒」なんか切り捨てられていたのかなぁと思います。幸運だったのは、高校がちょっと風変わりな(進学校らしからぬ)学校だった&わたしの学年の先生や担任の先生が人格者だったこと。
母親が直接担任の先生に手紙を渡しに行ったときに、病気のことを一生懸命訴えると、担任の先生は目に涙をためて話を聴いてくれたそうです。
学校が協力してくれるかどうかは、とても大きいです。

◎とりあえず必要最低限頑張って、出来る限り休む
さて、「なんとか3年生になろう!」と決めた高2の冬。
とりあえず卒業さえすれば、休んで浪人でもなんでもすればいいし、頑張ってみよう…とちょっと前向きになった時期でした。
わたしたち家族がしたのは、ホワイトボードを買ってくること。
目立つところにかけて、「あと何回授業を休めるか」を教科ごとに書き出しました。
例えば、「数U 正」と書いてあれば、数Uの教科はあと5回休めるということ。
一度休むごとに、正の字を一辺ずつ消して行きました。
「ちょっと生物があやしいから、今日は頑張っておこうかねぇ」などと、毎日ホワイトボードを見ながら、その日学校に行くかどうかを判断していました。
父親も会社から帰ってくると、
「今日は学校に行ったの?」
「ううん、行けなかった〜」
「じゃあちゃんとホワイトボード消した?」
「あっ、忘れてた」
…と、まるで責める様子もなく協力してくれてました。

さらに、以前定期テストで体調悪化を招いたので、学年最後のテストでは「名前だけ書いてあとはぼーっとしている」という荒業もやりました。
病気だとわかる夏休み前までは、やたら真面目になっていて人生で一番勉強していた時期だったので、点数が足りてたんです。(ラッキーでした♪)
あの時期にこんなことしてたのも、おそらくわたしだけでしょう。
今思っても貴重な経験でした(笑)

はじめから「最低限度しか頑張らない」と決めていたために、あと少ししか休めないから、頑張らなくちゃ…という感じにはならず、どっちかというと、家族で「ぎりぎりだけどなんとか乗り切るゲーム」のような感じになってました。
家族のこの積極的な態度は、すごくありがたかったです。


○ 少々しつこいけど、家族の理解の大切さのこと


この頃、母親に車で迎えに来てもらう、学校からの帰り道で遊びに行くことがしょっちゅうでした。遊びといっても、気分転換に海の側のショッピングセンターで海を見ながらお茶をして、話をする…という程度のことでしたが。
でもこれは、自分では出かけられないわたしにとってすごくいい気分転換になっていました。「病気で何も出来ないんだから、楽しんだりするのは間違い」と言われてしまうと、病人は何も言い返せません。
自分は家族に迷惑を掛けている…という引け目があるから。
でも、楽しいことってなぜか身体にいいのです。精神的な作用だと思います。だから体力を削らない、楽しむ方法を考えた方がいいのです。
(因みにインターネットは、体力を削るからということでかなり制限してました…が、当時はネットが大好きだったので、これはすごくストレスでした…。
我慢しなくちゃいけない場面も、当然あります。)

周りで見ている家族は、相当歯がゆかったと思うんです。
本当なら一番健康であるはずの時期だし、大学受験などもあるから勉強もしてもらいたいだろうし。
一刻も早く良くなって!という気持ちになってしまうのは、当然のことです。
もちろん何度かそういうケンカをしたこともありました。
でも、家族の基本的な態度は「とりあえず卒業、そのために頑張ろう」でした。
何度も「頑張り過ぎないように」と注意してくれました。

結果的にわたしは塾も行かなかった(行けなかった)のですが、志望校に現役で合格することが出来ました。(学校の先生も友達も、みんな驚いてました)
これは最短ルートで回復することが出来たからだと思います。
それにはマクロビオティックなどの治療法による力が大きかったのですが、
家族のサポートがなければ絶対になかったことだと思っています。